BORDERLAND

編んだ言葉、拾った言葉。

反科学言説の科学言説化について

今日も赤ん坊は、よく泣く。起きて泣き、食べて泣き、食べおわって泣いたら、なにもないのに泣く。言葉がこのような感情を表出するために育つのだとすれば、言葉以前の赤ん坊に教えられるのは、この泣く感情のとてつもない頻繁さである、わたしたちはもうそれを意識下へと追いやっているけれども。不安、悲しさ、不満、つまらなさ。

ところで、近年、いわゆる陰謀論スピリチュアリズム、それらに近いエコロジーの言説が、その主張とは裏腹に、じつに科学的なスタイルを採用していることを興味深くおもっている。たとえば反ワクチンの議論にしても、そこに展開されるのは、ワクチンの成分や身体の医学的な機構を専門用語と数値を駆使して語る、偽科学的論証である。いまや「医師嫌い」がもっとも「医師らしい」たちふるまいで、「薬嫌い」がだれよりも「薬に詳しい」。陰謀論の興隆が根源的な不安の情動に基づくことはよく指摘されるが、その言説のスタイルはそんな情動とは対照的な、客観的かつ冷静なもの。こうした現状を、反科学言説の科学言説化、といえようか。

Rita Felskiはthe LIMITS OF critiqueのなかで、批評(クリティーク)と呼ばれてきた言説が、「懐疑的な解釈学」のスタイルをとってきたと批判している。疑心暗鬼的で否定的(懐疑的)な情動と、その情動に突き動かされながらもそれをひた隠す、科学的なふるまい(解釈学)。この批判が正しければ、現代の陰謀論の源流には批評があった、と言えようか。あるいは批評こそが陰謀論だったのでは……。

陰謀論にせよ、批評にせよ、結局のところ、負の情動を語ることへの社会的な忌避感があるのではないかと思える。負の情動を負の情動のまま語ることが許されぬ社会。そんなことをしたら、瞬く間に科学言説による説教をうけることになる社会。ならば負の情動は、客観的証拠を無限に積みあげた、説得可能なスタイルへと昇華させされねばならぬ――。そうして積み上げられた言葉は、他者とのコミュニケーションを許さぬ、めいめいの真理との壁打ち状態。

そうであれば、いま求められているのは、情動を疑似科学化せずに表出しうる言葉、である。真理に向かう弁証法ではなく、不安を吐露するコミュニケーション、である。赤ん坊が泣いている、おそらく大人だって泣きたい。泣いてくれれば抱きあげよう。まずは泣きたい気持ちを語る言葉を、どうやって育もうか。