BORDERLAND

編んだ言葉、拾った言葉。

「修復的読解」について

朝と午後、子どもを保育園に送迎する間だけ、ラジオを聴いている。先週は「時の日」なるものがあり、ラジオのお便りテーマも「時間」だった。えー、今週のお便りテーマは「時間」です。時間にまつわるエピソード、どしどしお寄せ下さいね。ではさっそく、京都府プリキュアさんから。我が家には古い音声時計があります。昔懐かしい音で時間をお知らせしてくれます。箱が少し壊れてしまい、ガムテープで補修していますが、まだまだ現役です。古いものは長持ちしますね。あー懐かしいですね、我が家にもありました。まだまだ現役なんですねえ。そうですね、なんででしょうね?古いものってほんと、頑丈なんですよねえ。お便りまだまだお待ちしております。この言葉はなんだ?と思った。この世界はなんだ?と思った。ここにあるのは、なんにも新しい情報の無い世界。

イヴ・セジウィックの晩年の論考、Paranoid Reading and Reparative Reading; or, You’re So Paranoid, You Probably Think This Introduction is About Youを読んだ。ポスト構造主義から新歴史主義へと移行してきた批評潮流のその先を模索する、ポスト・クリティークに位置する論考として、「エクリヲ」に翻訳されていたのを読んだ。ここでセジウィックは、これまでの批評において、日々の生活の中で「よろこび」や「改善」を求めてきた人々の営為が見落とされてきたことを指摘している。わたしはこのように理解した。つまり、セジウィックが対象としてきたような、社会的抑圧の対象たる人々の生にたいして、その社会構造を暴きだし、批判し、転覆させるようなものと、その社会構造を無自覚に内面化し、従属するようなものの二分法で切り分けることに、わたしたちは手慣れてしまった。そのどちらでもなく、手元にあるもののなかでなんとかやっていく、傷つけられた箇所を修復していく―つまりセルトー的な意味で―のが、多くの人々の生だったはずなのに。

「言葉」と結びつけるならば、既存の意味体系を更新する革新的な言葉と、既存の意味体系を維持する保守的な言葉に切り分けること。そうした手つきのなかで見落とされてきたのが、くだんのラジオの言葉のようなもの、ではなかったか。新しい情報はない、新しい意味もない。しかし人と人、記憶と記憶が「結びつく」という感覚だけがある。「ああ、うちにもそんな時計、あったあった」とか、「そうそう、古いものって、もつのよねえ」とか思いながら、わたしを含む、たくさんのリスナーが聴いている。記憶と言葉を手繰り寄せ、その連関を構築していく。そのようにしてできあがる網目の中でようやく、人は生きられるのかもしれない。