BORDERLAND

編んだ言葉、拾った言葉。

「ワークライフバランス」という言葉の苦しみ

晩夏。 「ワークライフバランス」という言葉。仕事一辺倒の資本の奴隷から、ライフを考慮した豊かな生活へ、そしてライフの実りをワークへ還元!というこのスローガン…結婚と仕事の二者択一状態で長年悩んでいたころには、この言葉こそ希望の光であり、なんとしても断固としても、「ワークライフバランス」の均衡状態を守らねばならぬと固く誓ったものだ。

しかしこの均衡を徹底させようとすればするほど、精神の辛さが増していく。とくに、私のように「ライフ」と「ワーク」が「一般的には」両立不可能だろうと思われる条件の場合、「バランス」を維持する努力は、心がけ程度ではままならず。研究を邪魔しないように家事の時間は一日のうちの〇%時間で、子育てに時間をかけるために研究は今までの〇%時間に抑えて、夫との家事分担時間が丁度一致するように…etc。これでは時計の奴隷ではないか。

なぜこんなにも「ライフワークバランス」という言葉が辛いのか?「ライフ」が「ワーク」の邪魔物であり、「ワーク」が「ライフ」の邪魔物であり、どうすれば「ワーク」を邪魔せず「ライフ」して、「ライフ」を邪魔せず「ワーク」できるか?という思考に陥っていくからなのだ。私がそのときに両立させたかった「ライフ」=結婚生活も、「ワーク」=研究も、自分が望んでやりたかったことなのに、いつから、何かの邪魔物としてしか捉えられなくなってしまったのだろう?

夫が明け方畑に出発するたびにうっすらと古代の農業民に思いを巡らせてみるのですが、彼らにとっての「ワーク」は「ライフ」そのものだったはずだし、「ライフ」は「ワーク」そのものだったはずである。「ライフ」と「ワーク」がこんなにも乖離して、互いを邪魔する犬猿の仲になってしまったのは、食べ物を外注する分業体制が確立してからなのかもしれない。 無論、外注に留まらず、その料金まで踏み倒す大人が現代には多いのです。たとえば。両親に寄生する実家の虫や(私のこと)、妻に家事の一切を負わせて、負わせたことすら忘れている男たち(アカデミアに多数生息)などなど。「ライフ」と「ワーク」の「両立」ではなく、「ライフ」の「外注」、はたまた「踏み倒し」。

自分ひとり生きていくうえで、自分ひとりを生きさせる最低限の「ライフ」の、この有り様に無自覚だとすれば、人間として恥ではないか? やはり「ライフ」は、どうしたって「ワーク」とは天秤にかけ難い。自分ひとり生きている、生きていく、生きさせる、その労力を労力とせず、所与のものとして人生の核にして、その大きな大きな風呂敷の上でワークの積み木遊びするような、そういう生き方ができたらなぁ。そんなことを思いながら、研究全く捗らず、赤ん坊と遊ぶ日々。